以前、バイブルティータイムのために『I will be with you Journal』というノートを作りました。これは、高校生の時に救われ、その後、親や他人の都合で自分の願った人生を歩めない苦しさで、神さまから逃げていた時、押し入れにあった昔のジャーナルの創世記28章15節を見つけたことに遡ります。何年か前の『あじさい』で、ゲイリー・トーマス「聖なる道」の9つのタイプを紹介し、神さまとの関係を深める方法も、神さまが私たちをキリストの似姿にしてくださる方法も、人それぞれ違うことを書きました。今思えば、このジャーナルは、観想的な私にぴったりのレクチオ・ディビナと神さまへの祈りを書き留めるものだったのに、自分のためのジャーナルではなくなっていました。もしかしたら、もっと結果が出せて認められること、誰の目にも自分の信仰深さが表されることに、心が向いてしまったのかもしれません。その事を考えれば考える程、本末転倒し、魂を休ませることも、神さまと過ごす時間も、すっかり持てなくなってしまったのです。
以下は、ダラス・ウィラードの “Renovation of the Heart “の中の言葉です。 「キリストにおける霊的な形成は、秩序だったプロセスである。神は無秩序の中で勝利することができますが、それは神の選択ではありません。そして、神ができることにフォーカスするのではなく、神が私たちと共に働くために選んだ方法を受け入れるために謙虚にならなければなりません。これらは聖書の中に、特にイエスの言葉と人格の中に明らかにされています。イエスは私たちが重荷になるような負担の多い方法、特に「宗教的」な方法から離れ、イエスと共に訓練するくびきの中に入るよう招いておられます。これは優しさと低さの道であり、魂の休養への道です。それは、彼の荷を引き、彼の荷を一緒に運ぶことが、楽で軽い人生であることを証明する内なる変革の道です。(マタイ11:28-30)”