サンフランシスコは、良いお天気

数週間前、バタバタとバタバタの間のスポットに、SFに出かけてきました。

ゲストがいらしていたので、思いきって出かけたわけですが、午前中は、私のzoomミーティングがあったので、午後からになってしまったのでお天気が心配でした。

この日は、珍しく雨の予報のベイエリアでしたが、SFは良いお天気でした。

窓から覗いた太平洋は、こんなにも綺麗!

ザ、観光地(高級住宅街)で、ローカルな散歩民のように芝生に寝転んだり、束の間のリフレッシュ時間が持てました。

注) ローカルな散歩民は、こんな所に寝転ぶことはありません。💦

サラトガクリーク

深夜2時のヘブル語クラスを、うっかりすっぽかした介さん。
懺悔の珈琲タイム@サラトガクリーク。

家でランチを食べたら、テーブルで寝てしまって遅くなった私も懺悔。

牧師の休日   現実逃避シリーズ

母は、あなたの味方です

今日のゲストが
お帰りになって、
片付けながら
色々なことを振り返る。

その間、
テキストやメールも、
だいぶ届いているようだけど、
しばしの間
キッチンに差し込んでくる
西陽を眺めています。

ドッと疲れた時に
ふと娘たちの声が
聴きたくなる。
今日は、いつも
出てくれない長女が
出てくれた。

ボストンのエアポートで
夕食を食べながらだけど
話せてホッとした。

距離はあっても
大切な時には
つながれる。

アップルさま
FaceTimeさまさまです。

山は高いほど⛰
登りたくなるけれど
登れるチャンスは
そうそうないのだから
色々なことにチャレンジして
神さまの栄光を
あらわしてください。

相変わらず
何もできない母だけど
母は、いつでも
あなたたちの味方です。

父も頑張れ👍最後に一応つけておきました

平和の道具🕊

ずっと、、、
慰めることより
慰められることを
理解することより
理解されることを
愛することより
愛されることを
求めていたのだなぁと
気づかされた朝。

日本に帰ってから、
ずっとモヤモヤしていたことを
休暇中の礼拝のメッセージで、
見事に心を掃き出され
次の日、思い出のつまった銀座で
久しぶりに、この祈りに
出会わせてくださった。

最初から、
何も出来なくてよかったことに、
ようやく気づかせてくれたこの祈り。

御手を動かし、働かれるのは、
私ではなく神さま、
あなただったのですね。

『平和を求める祈り』

わたしをあなたの
平和の道具として
お使いください

憎しみのあるところに
愛を
いさかいのあるところに
ゆるしを

分裂のあるところに
一致を

疑惑のあるところに
信仰を

誤っているところに
真理を

絶望のあるところに
希望を

闇に光を
悲しみのあるところに
喜びを
もたらすものにしてください

慰められるよりは
慰めることを

理解されるよりは
理解することを

愛されるよりは
愛することを
わたしが求めますように

この祈りが、心からの祈りになった朝。
願わくは、この祈りが
いつまでも、我が祈りとなりますように。

“平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。”
マタイの福音書 5章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

秋になってしまったのですが、日本で思わされたこと、素敵な場所や風景を書き留めておきたい、、、。

モントレー湾の夕暮れ

“My Lord God,

have no idea where I am going.

do not see the road ahead of me.

cannot know for certain where it will end.

Nor do really know myself, and the fact that I think am following your will does not mean that I am actually doing so.

But I believe the desire to please you does in fact please you.

And I hope I have that desire in all that am doing.

hope that I will never do anything apart from that desire.

And I know that if I do this you will lead me by the right road, though I may know nothing about it.

Therefore will I trust you always, though I may seem to be lost and in the shadow of death.

will not fear, for you are ever with me, and you will never leave me to face my perils alone.

Amen.”

Thomas Merton

先日、日本に住む友人牧師夫妻に、トーマス・マートンのことを紹介した。

このトーマス・マートンの祈りは、

自分がこれまでしてきたことが、よかったのか分からない時、

これから、どうしたらいいのかも分からない時に、親近感を覚える祈りです。

神さまの導きによってしていたことも

本当にそうだろうか?

あれでよかったのだろうか?

これからは、どうしていけばいいのだろうか?

と時々考えてしまう時もある。

でも、マートンの祈りのように、

神さまを喜ばせたいという願いは、神さまを喜ばせるもの。

そのように思ったら、誰かが喜ぶことではなく、自分がしたいことではなく、

もっと神さまのことを知り、何を願われているのか、その深い御思いを理解できるようになりたい。

44℃の暑さから逃れるために、モントレーまで行った祝日の夕暮れ。

朝焼けなのか、夕焼けなのか、分からないような幻想的な対岸の風景に見惚れました。

本当、モネの絵みたいだね〜。

適当なピーチパイ🍑

最近のマイブームは、旬のピーチパイです。

今までは、パイ生地というものに構えていたのですが、耐熱皿に個別にいれてしまえば、見栄えも崩れも気になりません。

春のピーチを並べて、時にはジャム、時にはコーヒー用のバニラシロップをたらして、バターで周りを塗るだけ。

市販のパイシートがなければ、薄力粉とバターで適当に。

多分、最後にバニラアイスを乗せれば、全てよきに頂けます。

今回のパイ生地は

強力粉   90g

薄力粉   90g

バター   150g

必要ならば、冷水を少し。

冷やしたバターを細かく切って、粉と一緒にすり混ぜ、1時間冷蔵庫で寝かせる。

写真の今日のピーチパイは、強力粉がなかったので、薄力粉180g。

早く食べたかったので、冷蔵庫に寝かすのもスキップ。

今年から、Water Polo部に入部して、いきなり試合に出ている三女は、お腹を空かせて帰って来るのに夕食もピッキーなので、必ずデザートを欲します。

先週に続き2回目ですが、今のところ「美味しい美味しい」と言って喜んで食べてくれています。

この耐熱皿は、10年以上前に、引っ越される方からいただいたモノ。

クリームブュルレ用であさいので、ドリアには小さいのですが、家族の人数が少なくなってから、特に重宝しています。

梅ジャムと沈黙

この夏は、天に召された義父の記念会があり、一時帰国をすることができました。

昨年の7月、突然日本から義父の訃報を受けた時、介さんはその週末、既に教会員の告別式の司式と納棺式の予定がありました。

コロナの感染対策で、出入国の為のPCR検査、国内の移動も制限されていたもどかしい時期。

コロナ禍のストレスと、3年間に経験した様々な喪失感に重ね、精神的に大きなダメージを受けることが続いたこの一年は、これまでで一番辛い一年だったように思います。

そんな中でのやっとの帰国でしたが、この3年間に絡まったままの心の糸や、周りとの心の時差を感じたり、小さなことにショックを覚えたり、改めて、今この時に見るべきものを見せて頂いた今回の旅でした。

帰ってから、ゆっくりリフレクトしたいと思っていたけれど、現実は容赦なかったです。

久しぶりの日本から帰った私たちは、非現実から現実への時差ボケの期間に持ち越した問題に翻弄されながらも、眠れずに変な時間にお腹が空き、起きなければいけない時間に眠くなる毎日。

そんな朝は、日本から大切に持ち帰った梅ジャムで、ヨーグルトを食べました。

そう言えばお嫁に行った頃は、まだ介さんの実家前には梅の木がありました。

今、その場所はファミマになっていて、今回帰国した初日から、娘たちが毎日のように通っては、少しづつ日本語での買い物の練習をしました。

「ファミマなら、会話しなくてもきっと大丈夫。」そう思っていた次女が、

どうやら支払った後、まさかの店員さんからの質問に硬直してしまったらしい。

「オフクロハオモチデショウカ?」

意味がわからず、何を答えたらいいのかわからなかったと。

見つめ合ったまま1分間が経過し、やっとビニール袋に入れられた品物を受け取り、理解できたようでした。

1分間の沈黙は、意外に長い。

きっと息もできなかったのではないか?と想像する。

私たちも、持ち越した心の葛藤によって、pauseのように自分たちの思考が止められた気がしました。

そして、何事もなかったかのように、周りは動いている。

今思うとあの時差ボケのpauseの時間は、この世界で私たちだけが葛藤しているような、見えない隠された時間だった。

でも、あの沈黙をきっかけに、心の結び目が一つひとつ解かれるように、神さまが、今、大切なプロセスに導いてくださっているように思えるのです。

あの時、ファミマでなんて言えばよかったのか?

「ありがとう」でも「お願いします」でもなく

「いいえ、持っていません」です。

そして、それが言えたら

「ください」とか、「結構です」とか会話が続くことになって、

ファミマでは、会話しなくても大丈夫説は、無くなるわけです。

「いいえ、持っていません。」「ください。」

「お願いします」「ありがとうございます」

そんなことを娘に教えながら、日本に行くまでの怒涛の1ヶ月、神さまとのコミュニケーションもできていなかったなぁと教えられる時でした。

只今、工事中です

2022年6月8日

  5月になって、ある日突然耳が聞こえづらくなりました。ずっと体調が悪かったので、気をつけてはいたのですが、「いきなり耳が聞こえないってどういうこと?」と自分でも驚きました。最近の私は、本来やるべきことも少し手放して、十分スローダウンしていたし、負担がかかりそうなことは、休み休みしていたので、どうしてなのかわかりませんでした。そんな時、牧師がいつも聞いているアメリカのポッドキャストで紹介されていた内容を、わざわざプリントして読ませてくれました。そこには、このように書かれていました。

霊的生活は贈り物です。それは聖霊の賜物であり、聖霊は私たちを神の愛の王国に引き上げてくださいます。しかし、その贈り物が提供されるまで受動的に待つということではありません。(マルコ10:23)イエスは、私たちの心を御国に向けよと言われます。心を向けるということは、真剣な願望であると同時に、強い意志が必要です。霊的な生活には、人間の努力が必要です。私たちを心配事だらけの生活に引き戻そうとする力は、簡単に克服できるものではありません。私たちは普段、外界の雑音に囲まれていて、神が私たちに語りかけているのを本当に聞くことができない。私たちはしばしば耳が聞こえなくなり、神がいつ私たちを呼び、どの方向に導いているのかも理解できないため、私たちの生活は放蕩/不条理で、傍若無人のなものになっています。

               『デボーション・クラッシック』ヘンリ・ナウエン

放蕩とか不条理という言葉には、ラテン語で「耳が聞こえない」という意味の言葉が含まれているそうです。それを知った時、ちょうど私の耳が聞こえないということと被りました。あまりにも自分の心配事に場所を容認しすぎた毎日は、神さまの思いや、願われていることに対して、私の心や耳を塞ぎ、神さまからの贈り物である「神の愛に満ちた霊的生活」に生かされることから程遠く、悩みと失望に満ちていたのだと気づかされました。

騒がしい心配事に満ちた生活から、神さまの声に耳を傾け、心に自由な余白を持った生活へと移っていくためには『エクササイズー生活の中で神を知る』ことが必要です。本を読まれた方は、これが難しそうで意外となんとかチャレンジできそうと感じたのではないでしょうか。例えばこの本の一番最初には、「よく眠る」というエクササイズが紹介されています。私は、どちらかというと一人で時間を過ごすことが好きなタイプなので、ジャーナリングやソリチュードを持つことは苦ではありません。でもその分、辛い修行もトレーニングも嫌いなので、霊的修練のエクササイズも、苦手なものは、いつの間にか途切れてしまっていました。今回、耳が聞こえなくなったおかげで、睡眠時間を増やそう。一人で庭や自然の中にいる時間を増やそう。もう一度ジャーナリングを始めようと思いました。

以前、バイブルティータイムのために『I will be with you Journal』というノートを作りました。これは、高校生の時に救われ、その後、親や他人の都合で自分の願った人生を歩めない苦しさで、神さまから逃げていた時、押し入れにあった昔のジャーナルの創世記28章15節を見つけたことに遡ります。何年か前の『あじさい』で、ゲイリー・トーマス「聖なる道」の9つのタイプを紹介し、神さまとの関係を深める方法も、神さまが私たちをキリストの似姿にしてくださる方法も、人それぞれ違うことを書きました。今思えば、このジャーナルは、観想的な私にぴったりのレクチオ・ディビナと神さまへの祈りを書き留めるものだったのに、自分のためのジャーナルではなくなっていました。もしかしたら、もっと結果が出せて認められること、誰の目にも自分の信仰深さが表されることに、心が向いてしまったのかもしれません。その事を考えれば考える程、本末転倒し、魂を休ませることも、神さまと過ごす時間も、すっかり持てなくなってしまったのです。

そんな時に、耳が聞こえなくなった。この事に驚きつつも、不思議と自分に対する「神さまの本気」を感じました。当然神さまは、いつも誰に対しても本気だとは思いますが、神さまは私たちを本気で工事されようとしているのだと思いました。

ちょうどその頃、毎年恒例のハーブソルトを、ただ黙々と祈りながら作り、誰かをもてなすことをあれこれと考えているうちに、それを喜んでいる自分に気づきました。お礼を言われることでも、認められることでもなく、イエスさまと一緒にそのことを楽しんでいるように思いました。それから数日後、予定されていたグループ・スピリチャルディレクションで、沈黙の時間がありました。目を閉じると、心の中に「わたしはここにいるよ」という言葉があたたかく響いてきました。セッションが始まり、導かれるままにお話した後、5分間の沈黙の時間がありました。すると、また先程の言葉が何度も何度も繰り返し響いてきました。幸いなことに、それ以前から耳は聞こえるようなっていました。でもこのことを通して、耳ではなく、神さまの愛の御国の扉が、もう一度私の前に開かれたようで、その日からなんとも言えない喜びと平安が与えられました。

イエスさまの生涯は、どんな時にも、誰の言葉や態度にも縛られない自由な生き方でした。それは、いつも御父に耳を傾け、その声と導きに従っておられたからです。きっとこれこそが、私たちに与えられた特権と喜び。耳を傾け、いつもその心を神さまに向け、この地上にありながら神の愛の御国に住み、主と共に毎日を生きることだと思わされました。

霊的形成は、人生の旅路と共に生涯続く修練のプロセスです。しかも、さながらサグラダ・ファミリアのように、なかなか工事は進まず、私たちは常に工事中のままかもしれません。それでも建築士は神さまですから、完成していない姿のまま、世界遺産級の神の作品として価値あるものとされました。そんな風に思ったら、いつもどこかが工事中のままだけれど、その壊れやすいもろさも、未完成な醜さも委ねて、完成までのプロセスを、イエスさまと共に楽しみ喜んで歩みたいと思わされました。

以下は、ダラス・ウィラードの “Renovation of the Heart “の中の言葉です。     
「キリストにおける霊的な形成は、秩序だったプロセスである。神は無秩序の中で勝利することができますが、それは神の選択ではありません。そして、神ができることにフォーカスするのではなく、神が私たちと共に働くために選んだ方法を受け入れるために謙虚にならなければなりません。これらは聖書の中に、特にイエスの言葉と人格の中に明らかにされています。イエスは私たちが重荷になるような負担の多い方法、特に「宗教的」な方法から離れ、イエスと共に訓練するくびきの中に入るよう招いておられます。これは優しさと低さの道であり、魂の休養への道です。それは、彼の荷を引き、彼の荷を一緒に運ぶことが、楽で軽い人生であることを証明する内なる変革の道です。(マタイ11:28-30)”

中尾真紀子

Remember me

すみれとすずらんと
同じくらい好きな
Forget me not。

今年は、
キリストの十字架の隣りで
Remember me….と
言えた罪人に
思いを馳せている受難週。

そして、ピラトが群衆に
「Ecce Homoこの人を見よ」
と言った時
僕となられたキリストを、
私はどんな風に
見ているのだろうかと。

今年のHoly weekは、この数週間に起きたさまざまなな出来事の上に、

主が一歩一歩、共に歩んでいてくださることを感じながら過ごしています。

毎日、そのwonderを思い巡らしながら、

十字架のキリストから溢れてくる愛と憐れみに、慰められています。

見よ。その報いは主と共にあり、その報酬は、主の御前にある。イザヤ40:10

The Passover Table

受難週、ホーリーウィークに入りました。2年前の過越の祭りの時の食卓を、YouTubeで見て懐かしくなり、アップしてみることにしました。

丁度、明日長女がシカゴから帰ってくるので、久しぶりにパンを焼いて頂きたいです。

今年も、教会のInstagramに『みことばとともに十字架の足跡を」を更新しています。