静まりのリトリートへの招き 3

主とともに退く 〜リトリートへの招き〜 (舟の右側掲載)

いよいよ、来週はC−WIT22です。

イースター前の忙しい時に、参加なんて無理😢

と思われている方は、是非読んで頂きたい「椅子取りゲーム」のお話。

まさに、、、私自身が、只今この状態です。😅

でも、こんな時に神さまが招いてくださっている。

そのことがたまらなく嬉しくて、「強制終了」の時を楽しみにしています。

『主と共に退く』シリーズ、読み返す度に、魂のリトリートの大切さを思わされますね。

ラストミニッツですが、やっぱり参加したい!と思われる方は、是非ご一報ください。

mnakao@jcfn.org

C−WITの内容説明は、この前の投稿をお読みください。

第7回 強制終了

 「強制終了が必要だったので参加を決めました」これは、ある静まりのリトリートに参加した神学生の言葉です。強制終了とは、コンピュータで実行中のプログラムが暴走したり停滞したりしたときに、強制的に終了させることです。私たちの生活も時として、「暴走して自分では止まれない」、「身動きできなくなったので仕切り直しが必要だ」と感じるときがあるかもしれません。

 ルース・ヘイリー・バートンは、静まりのリトリートに行くとは椅子取りゲームのようなものだと言いました。どういう意味でしょうか。椅子取りゲームでは、丸く並べた椅子のまわりを音楽に合わせてぐるぐる回ります。そして音楽が止まると、目の前にある椅子に座ります。どの椅子に座ろうかと迷ったり、衣服がしわにならないようにゆっくり座ったりしません。とにかく座ります。リトリートに行くのも、そういうものだというのです。それまで全速力で走っていたのが、急に音楽が止まったかのようにパタッと座り込む…… まさに強制終了です。たいていの人は、リトリートに参加するためにあらかじめ仕事を終わらせておくとか、心を整えておくとか、そういうゆとりもないままにリトリートに来るものです。それでかまわないのです。事前の準備をしようと考えると、それだけでリトリートに行くのも億劫になります。強制終了でいいのです。

 とにかく出かけていって、心身ともに休息をとり、神様と集中した時間を過ごす…… なんと夢のような話でしょう!ところが、いざリトリートに行こうとすると、ためらいを覚えることも珍しくありません。準備は不要と言われても、自分の留守中も家庭や教会や仕事がちゃんと回るよう、段取りを整えなくてはならないと感じるのです。子どもを預ける手配をしたり、奉仕の担当を他の人に頼んだり、出かける前にどうしても片付けておくべき仕事があるかもしれません。私の場合、子どもたちが小さいうちは、洗濯と食料の買い出しを済ませ、カレーを大鍋に仕込んでから出かけたものでした。リトリートの最中に「お母さん、〜〜はどこ?」と連絡がこないように、留守中に家族が必要になりそうなものは、確認して揃えておきました。

 事前に段取りを整えておけば、確かに安心して出かけられますが、留意すべき点もあります。出かける前にあれもこれも準備しなければ、と思う気持ちの背後にある動機です。もしかするとそこには、留守中も家庭や教会や仕事を自分の納得するように回したいという、一種の支配欲があるのかもしれません。あるいは、自分がいなくても物事が問題なく回るのであれば、自分の存在意義が脅かされてしまうと感じるのかもしれません。リトリートに出かける前に「これはやっておかねば」という思いが出てくるとき、それが留守番する人たちが困らないようにという配慮からなのか、それとも自分の願いやニーズや何らかの弱さから出ているのか、考えてみるといいでしょう。

 さらに、事前に留守中の準備を整えることがたとえ愛から出ていたとしても、その援助の行為が愛する人の自立や成長の機会を奪ってしまう場合もあります。イエスは復活後、ご自分の昇天について、こう言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16・7)弟子たちはイエスにずっと地上にいてほしかったことでしょう。しかしイエスが地上に残られたら、聖霊が私たち一人ひとりのうちに住まわれなくなってしまうのです。イエスは、去っていかれることにより、私たちにより善いものをお与えくださいました。

 ヘンリ・ナウエンはそれを「不在によるミニストリー」と呼んでいます。時には自分が不在になることが、愛する人にもっと益となることがあるのです。それとは逆のことが起きる顕著な例は、共依存です。共依存とは、相手を困った状態から繰り返し助け出すことにより、その人をますます依存状態に縛り付けてしまうことです。自分の不在中も家庭や教会を守りたい、仕切りたいという強い気持ちがあることに気づいたら、その思いを主に明け渡し、愛する人たちを主の御手にゆだねてください。そのとき、気がかりなことを紙に書き出して、封筒に入れて主にお渡しするという自分なりの儀式のような時間を持ってもいいかもしれません。

 リトリートに行くことへのもう一つの内的抵抗に、外の世界から遮断されることへの恐れがあります。リトリートの最中は、基本的に新聞、テレビ、インターネット、メールなどから離れます。社会で大きなことが起こっても、すぐに情報が入りません。フェイスブックやツイッターなどのSNSで、情報を得ることも発信することもしません。発信し慣れている人にとっては、これは思いのほか大きなチャレンジとなります(自分自身を振り返りつつ、今これを書いています)。リトリートの最中、つい美しい景色の写真をSNSに載せたり、自分が神様に親密に語られていることを、全世界に向けて即座に分かち合ったりしたくなるのです。この衝動はいったいどこから来るのでしょうか。
 また、しばらくSNSから離れていると、FoMO(フォーモ)(Fear of Missing Out「取り残されることへの恐れ」)と言って、世間の流れに遅れを取るような、友人たちから取り残されるような、そんな不安を覚えることもあります。この恐れはどこから来るのでしょうか。

 こういった内的抵抗は、自分でも意識していなかった衝動や執着や弱さが、自分の中にあったことに気づかせてくれます。しかしそれに目を向けるのは、自分を責め、打ちたたき、さばくためではありません。イエスは私たちの内的抵抗を、憐れみをもってご覧になっておられます。私たちは自分の中に「良くない」ものがあると気づくと、それに対処してからでないと主の前に出られないと思うかもしれませんが、このような気づきは、むしろトランスフォーメーション(変容)への招きなのです。

自分の内側の弱さに主が光を当ててくださるとき、私たちにできることは、そこに光が十分に届くよう、邪魔なものをどかしてスペースを作ることではないでしょうか。そしてその光に、主の語りかけに、自分を開くのです。暴走したプログラムがリセットされるのは、強制終了をしてからです。私たちの内側に抵抗があるのを承知で、主は招いておられます。休息へと、そして主との語らいの時間へと。

静まりのリトリートへの招き 2

主とともに退く 〜リトリートへの招き〜 (舟の右側掲載)

第5回 静まりとソリチュード

 私はこの数年、三ヶ月おきに二泊二日のリトリートに出かけています。このリトリートは、一日四回の全体での祈りと礼拝の時間、主催者による講義の時間、各人で持つ沈黙の時間、小グループでの霊的同伴の時間によって構成されています。残念なことに、この三月からはコロナ禍のため休止状態でしたが、先日、リトリート再開に関するアンケートが来ました。その中に、「もしオンラインでリトリートを行うことになった場合、二泊二日の期間中、ホテルなどに部屋を取るか、あるいは自宅で一人になれる場所を確保することができますか?」という問いがありました。リトリートはさまざまな形で持つことが可能ですが、リトリートの要(かなめ)は日常生活から退いて一人で静まる時間なのだと、改めて確認させられました。

 退いて一人きりになることを「ソリチュード」と言いますが、なぜ静まり(沈黙)とソリチュードがリトリートの要なのでしょうか。沈黙とソリチュードは、私たちのたましいに何をもたらしてくれるのでしょうか。

(1)私たちのたましいがこの世の形(やり方・価値観)に沿って形造られることを防ぐ

ローマ書12章2節には「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」とあります。「この世と調子を合わせてはいけません」の部分のある英語訳は、「この世の型にはめこまれないように」となっています。この世は、本来神の形に造られた人間を、歪め、貶(おとし)め、「この世」の型にはめこもうとしていますが、パウロはその圧力に屈するなと言っているのです。

 私たちが影響や誘惑を感じる「この世の型」にはどんなものがあるでしょうか。富、成功、影響力や権力を持つこと、魅力的な外見、暮らし向きの良さ、物事の判断基準…… キリストの証人であるためにはこの世から完全に切り離されて生きるわけにはいきませんが、この世の価値観の中に絶えずさらされていると、どうしてもそこから影響を受けます。そこで、定期的にまとまった時間を沈黙とソリチュードのうちに過ごすことで、こういった価値観に沿って動いている世界からしばらく離れ、いわばデトックス(解毒)するのです。
イエスは「わたしについて来なさい(フォロー・ミー)」と言われました。近年ソーシャルメディアで誰かが発信する情報を継続的に受け取ることを「フォローする」と言いますが、私がフォローしているのはイエスでしょうか、それとも何か別のものでしょうか。

(2)自分の中にあるさまざまな衝動や依存、支配願望に気づく。

リトリートに来ると、家庭や仕事など、自分が後ろに置いてきたものがとても気になることがあります。また、外界から切り離されていると、得も言われぬ不安や焦燥感を覚えることもあります。テレビや新聞やインターネットのような情報源から離れているからかもしれません。電子メールの確認やソーシャルメディアでの情報発信ができないからかもしれません。何のプロジェクトも進めないでいることが、時間の無駄のように感じられるからかもしれません。これは、一種の禁断症状のようなものです。禁断症状が出て初めて、自分が何に依存していたかがわかります。

 ヘンリ・ナウエンは、ソリチュードは「トランスフォーメーション(変容)が起こる炉である」と言いました。沈黙とソリチュードは、自分の中にある神以外のものへの依存や、神になり代わって物事をコントロールしたいという願望に気づかせてくれるのです。

(3)「今、ここ」にとどまることを学ぶ。

第一列王記には、イゼベルとの戦いのあとで落ち込んでいたエリヤに、主が声をかけたときのことが記されています。そのときの主の御声は、激しい大風や地震や燃える炎の中にはなく、「かすかな細い声」(19:12)でした。なぜ主はかすかな細い声で語られるのでしょう。一方的に語るより、私たちの側も意識して主に注意を向けることを求めておられるからなのかもしれません。神はあらゆることを通して私たちに語りかけることのできるお方です。しかし、私たちの側もよく注意していないと、簡単に見過ごす可能性があるのです。

エリザベス・バレット・ブラウニングという詩人のこういう詩があります。

この地は天で満ちている 

どのふつうの柴も神の火で燃えている
しかし、それに気づく者だけが履物を脱ぐ
ほかの者はただその周りに座り、木いちごを摘む


 天とは神のおられる場で、この地は天で満ちています。主が燃える柴を通してモーセに語ったように、私たちの周りにあるなんの変哲もない風景や出来事も、実はみな神の火で燃えており、それを通して神は私たちに語りかけています。しかしそれに気づく者だけが、自分が聖なる地に立っていると知り、履物を脱ぎます。ほかの人たちは、自分のすぐそばで柴が燃えていることにも気づかず、自分の働きに没頭し続けるのです。

 沈黙とソリチュードは、今、ここで語っておられる神様の「かすかな細い声」に耳を傾け、私たちの周りの「燃える柴」に注意を払うことを教えてくれます。

 私が初めて静まりのリトリートに参加したとき、「この時間を有意義に、生産的に過ごさねばという自分の必要や欲求を手放してください。リトリートに達成目標はありません。ただ神からの愛のこもったケアを受け取ってください」と言われました。私たちは往々にして、何らかの目標や計画を設定し、それを達成できればその時間は価値があったと思いがちです。しかし沈黙とソリチュードは、何かを達成するためのものではなく、むしろ私たちが主の御臨在の中で休息し、御霊の語りかけを聞き、また自分の内側の深い部分からそれに応答するためのスペースを作るものです。

 そうは言っても、イエスの御声を聞かねば、イエスと出会わねば、と焦る必要もありません。

リトリートの最中、これといって何も洞察や語りかけはないかもしれませんが、それでもいいのです。リトリートに行くとは、その日、主だけのために取り分けた時間を、主にお捧げすることなのですから。「今、ここで(present)」の時間は、神からのギフトです。私たちはそのギフトをまた、見返りを期待せずに神にお捧げするのです。

お捧げした時間に神が何をなさってくださるのかは、私たちにさえ隠されていることがあるものです。私たちの側では、主の御声を聞くのに邪魔になるものを取り除き、あとは主にその時間の主導権をお渡ししましょう。

+++

日時:2022年4月16日(土)午前9時〜午後3時(カリフォルニア時間)途中休憩が何回か入る予定です。
場所:ZOOM(リンクはお申し込みをされる方にお送りします。)
テーマ: 「Night Vision〜まだ暗いうちに」
「さて、週の始めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやってきて、墓から石が取りのけられているのを見た。」(ヨハネ20:1)

プログラム(カリフォルニア時間):
9:00am:全体セッション 1
10:30am: 各人での静まり(ランチ休憩を含む)
1:30pm: 全体セッション2
3:00pm: 終了

静まりの時間を助けるための手引きや、グループでの静まりの時間(オプショナル)も用意します!

参加費:10ドル(こちらのサイトからお支払いください。お支払いされた方にZOOMのリンクをお送りいたします。)
申し込み締め切り:2022年4月9日(土)

*申し込まれた方には、受難週(4月10日より)のデボーションを配信いたします。

静まりのリトリートへの招き 1

C-WIT 静まりのリトリートの講師である、中村佐知さんが舟の右側に掲載された「主とともに退く」の連載。私たち夫婦は、その前の連載「霊的変容の旅路への招き」が読みたくて購読し、印刷して自分のファイルを作ったほど、それ以来毎回の連載を楽しみにしていました。

今回、C-WIT22のPRのために、佐知さんが「主とともに退く」シリーズの掲載許可を頂いて下さったので、このブログにもいくつかシェアさせて頂けることになりました。

主とともに退く 〜リトリートへの招き〜 (舟の右側掲載)

第一回 イエスの誘い

 みなさんは「リトリート」と聞くと何を思い浮かべますか? リトリートに参加したことはありますか? それはどういうリトリートでしたか?

 私が初めて「リトリート」と呼ばれるものに出会ったのは大学に入学したときでした。新入生のための泊りがけのオリエンテーションが学外の施設であり、それが「新入生リトリート」と呼ばれていました。その後も心理学科のリトリート、教会の女性リトリート、夫婦リトリート、役員リトリートなどに参加する機会がありました。
 
 これらに共通していたのは、キャンプ場やリゾートホテルなど、普段の生活の場とは異なる場所に泊まりがけで出かけ、参加者同士の親睦を深めつつ、研修、慰安、年間計画を立てる会議など、そのリトリートの目的である活動を集中的に行うことでした。
 
 近年では、心身のリセット、癒し、保養、自分探しなど、セルフケアのためのリトリートが注目を集めています。この場合、ヨガや瞑想、自然とのふれ合いなどが組み込まれることが多いようです。
 
 このようにリトリートにはさまざまな目的やスタイルがありますが、「リトリート(retreat)」とは本来、「後退」「撤退」「退却」を意味します。戦場で劣勢になったとき、進撃を止め、形勢を整えるためにいったん戦略的に撤退することを指す軍事用語だったそうです。それが転じて、今日ではセルフケアや何らかの活動を集中的に行うための合宿や集会を指すようになりました。
 
 後退の意味でのリトリートは、実は聖書の中にも見られます。たとえばマルコの福音書6章には、十二人の弟子たちが二人ずつ遣わされ、悔い改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人を癒し、それからイエスのところに戻って自分たちの活動を逐一報告したときのことが記されています。
 
 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。(6章30、31節)
 
 イエスの御名によって自分たちが成し遂げた働きに、弟子たちはおそらく大きな喜びや満足を覚えたことでしょう。我先にとイエスに活動報告をする様子が目に浮かぶようです。そんな弟子たちにイエスは、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われました。マルコは、大勢の人が出入りして、食事する時間さえなかったからだと説明します。今はまだ興奮冷めやらぬ弟子たちでしたが、実際は疲労していることをイエスはご存知だったのでしょう。
 
 「あなたがただけで」とありますが、続く節にはイエスも弟子たちともに舟に乗って寂しいところへ出かけたことが記されていますので、弟子たちだけで行きなさいとおっしゃったわけではなかったようです。むしろ、「群衆から離れて、わたしたちだけで静かなところへ行こう」と言われたのです。これはまさしく「一緒にリトリート(退却)しよう」ということです。なんと魅力的なお誘いでしょうか! 

 みなさんは、自分の敬愛する親しい人から、「ほかの人たちはここに残して、わたしたちだけで食事に行きましょう」と誘われたら、どうしますか?「いいえ、結構です」と断りますか? それとも、喜んでついていきますか? イエスと弟子たちのこの情景を想像し、しばらく思いを巡らせてみてください。その中にあなたの姿は見えますか? 
 
 何か大きな働きを達成したとき、心地よい疲れを覚えつつ、感謝と喜びを持って主に報告する。あるいは、群衆が押し寄せるように、息つく間もなくやってくる緊急の対応や決断が必要な案件に追われる。立ち止まりたくても立ち止まれず、食事や睡眠をとることすらままならない…… そういう経験は、みなさんにもあるのではないでしょうか。そんなときイエスが、「わたしたちだけで静かなところへ行って、一緒に休息しよう、一緒にリトリートしよう」と誘ってくださるとしたら、どうでしょうか。
 
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。(マタイ11章28節)
 
 これは、今日私たちにも差し出されているイエスからの招きです。イエスは私たちのニーズや限界をご存知なので、このように私たちを招いてくださるのです。主が私たちに差し出してくださるものは、いつでも招きの形でやってきます(マタイ22:2-3)。それを受け取るのも遠慮するのも私たちの自由です。その招きに、私たちはどう応答したいでしょうか。
 日常生活や日々の働きからしばらくの期間退くというのは(それが二四時間であれ、一週間であれ)、今日の社会ではなかなか容易ではありません。現代の私たちは、電子メールを一日チェックしないでいることにさえ困難を覚えるものです。退くことに対して、さまざまな内的・外的抵抗があるでしょう。リトリートなんて、時間や経済的ゆとりのある人だけができる贅沢だと思うかもしれません。自分がいなくなったら、家庭が、仕事が、教会がまわらなくなる、それは大げさではない現実かもしれません。それでも、イエスとともに退きたいという切望を心の奥に感じませんか? それは「わたしたちだけで静かなところへ行こう」というイエスからの招きです。思い切ってその招きに応えてみませんか? 

いざ静まりたいと願っても、なかなか自分一人ではどのようにしたらよいかわかりません。

今回のC-WITは、オンラインですのでどこからでも参加することができます。

イエスさまの招きに応えて、是非ご一緒に、豊かな静まりの時間を過ごしましょう。

今回のテーマは「Night Vision〜まだ暗いうちに」です。
私たちを取り巻く不安や先が見えない暗闇の中で、Night vision(暗闇の中で、主の御顔、主の御手の導きを見る視力)が養われ、主と共に過ごす豊かな時となりますように。🌿

日時:2022年4月16日(土)
午前9時〜午後3時
  (カリフォルニア時間)
   途中、休憩が何回か入る予定です。
場所:ZOOM(リンクはお申し込みをされる方にお送りします。)

ご自宅や野外、ご自分のお気に入りの場所で、自由に「静まりの時間」を過ごしていただけます。

テーマ: 「Night Vision〜まだ暗いうちに」
「さて、週の始めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやってきて、墓から石が取りのけられているのを見た。」(ヨハネ20:1)

プログラム(カリフォルニア時間):
9:00am:全体セッション 1
10:30am: 各人での静まり
     (ランチ休憩を含む)
1:30pm: 全体セッション2
3:00pm: 終了

参加費:10ドル
こちらのリンクからお申し込みください。

申し込み締め切り:2022年4月9日(土)←今週が締め切りです!

静まりのリトリート C -WIT22

これまで、シカゴ、南カリフォルニア、北カリフォルニアで行われてきた、JCFN主催『静まりのリトリートC-WIT』が、今年はオンラインで行われます。
以前は招待制でしたが、今回はどなたでも参加して頂く事ができます。

🌿参加を申し込まれた方には、受難週4月10日より、リトリートに備えるためのデボーションをメールで配信いたします。

🌿「静まりの時間」を助けるための手引きなど、参考資料を配布

🌿当日は2回のセッションの中で、グループでの静まりの時間(オプショナル)も用意しています。

今回のテーマは「Night Vision〜まだ暗いうちに」です。
私たちを取り巻く不安や先が見えない暗闇の中で、Night vision(暗闇の中で、主の御顔、主の御手の導きを見る視力)が養われ、主と共に過ごす豊かな時となりますように。🌿

日時:2022年4月16日(土)
午前9時〜午後3時
  (カリフォルニア時間)
   途中、休憩が何回か入る予定です。
場所:ZOOM(リンクはお申し込みをされる方にお送りします。)

ご自宅や野外、ご自分のお気に入りの場所で、自由に「静まりの時間」を過ごしていただけます。

テーマ: 「Night Vision〜まだ暗いうちに」
「さて、週の始めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやってきて、墓から石が取りのけられているのを見た。」(ヨハネ20:1)

プログラム(カリフォルニア時間):
9:00am:全体セッション 1
10:30am: 各人での静まり
     (ランチ休憩を含む)
1:30pm: 全体セッション2
3:00pm: 終了

参加費:10ドル
こちらのリンクからお申し込みください。

申し込み締め切り:2022年4月9日(土)←今週が締め切りです!

受難週のデボーションで、皆さんと共に主の受難を思い巡らし

当日、オンラインで静まりのリトリートをご一緒できるのを楽しみにしています。

「静まりのリトリート」と言っても、リトリートって何のために、どんなことをするのか?

後ほど中村佐知さんが舟の右側に掲載されたものを、このブログでもシェアさせていただきます。

C-WIT実行委員会(中村佐知、尾関祐子、倉田めぐみ、中尾真紀子)

問合せ: 中尾真紀子 JCFN協力主事  mnakao@jcfn.org

見晴らしのよい駐車場

この山の上のワイナリーには、三女が小学生の頃、お友達のお誕生会でアイスリンク?に来たことがありました。夏はコンサートや演劇をするらしいのだけど、会員制なのか?定休日なのでよくわかりませんでした。

見晴らしのよい駐車場は、パブリックにもオープンしている(らしい)?ようで、ピクニックテーブルがあって、なんとなく潜入できてしまいましたが、普通は、ワインテイスティング🍷に来る所らしいです。

その後降りてくると、未だに一度も行ったことのない箱根ガーデンの前に、桜が咲いているのを見つけました。来月、娘を連れて行ってみたいなと思っている夜桜。昼間の方がいいのかなぁ、いつ頃が見頃なのでしょうか?

すると、箱根ガーデンの入り口の真向かいに、藤棚を発見。

この季節、介さんは福岡の吉祥寺の藤棚を懐かしんで、藤棚探しをするのですが、見事な藤が、アパートの集会場とプールの壁に咲いていました。

たぶん、つづく、、、、

一隅に咲く花

あじさい                2022年3月22日 

 教会のキッチン側の狭い通路に、カラーの花が咲いています。今年は、大きな花が伸び伸びとたくさん咲いています。

数年前、このカラーを見て、「私はフラワーアレンジメントをするので、この花をいけてもいいですか」と、ある女性に尋ねられたことがありました。片隅に咲く花の美しさを、どうにか引き出してあげたいとの思いを感じる優しい言葉でした。

シスターの渡辺和子さんが「運命は冷たいけれど、摂理は温かい」と言われたのは有名です。「置かれた場所で咲きなさい」と、相手から強いられるならば、それは冷たく心に響き、理不尽な思いに痛みます。 

しかし、たとえ難しい境遇に置かれても、あなたの人生を花のように彩り、周りにとっても大切な存在、意味のある人生へと、造り変えてくださる方を見上げるなら、その言葉の響き方は温かく届きます。

そのように自分の人生を、神の愛の眼差しで見つめるか否かで、変わってくるのです。もし、神の愛の眼差しで自分の人生を見るなら、「運命」ではなく「摂理」の温かさに気づきます。これまで、ひとりぼっちだと思っていた人生には神が共にいて、苦しみと落胆の日には、なおさら優しい眼差しで私たちに愛を注ぎ、摂理のうちに、最善にアレンジしてくださると信じることができます。

先程のカラーを持ち帰られた方は、JOLの英会話クラスや40ユニオンカフェを通して、帰国前に礼拝に来られた方でした。先週、その会話を思い出して、どうされているかなと思っていると、この日曜日に、その方の訃報を伺いました。

不思議に振り返っていたその方のこと、ご家族の慰めを祈ると共に、これまで、カフェや英会話で教会に来られた方々に撒かれた種が、それぞれの場所で咲かれることを祈る時となりました。

デューク大学のオズボーン博士は、いま小学校に入学した子どもの65%は、大学卒業時、現在は存在していない職業に就くと予想されているそうです。確かに、野球選手が多かった私の子供の頃には、サッカー選手という職業はなく、今の子どもたちの夢はユーチューバーになることと聞き、それはどんな職業なのかと驚いてしまう。

その予想によると、「自分の夢」を描くことは、現在存在する35%に自分の可能性を、閉じ込めることになります。そう考えると、私たちが夢や理想と願っていたことも、神の目には、狭い可能性の中にしかないものを、必死で追い求めていたのかもしれません。

それならば、私たちは、誰かが描いた夢や将来ではなく、人智を遥かに超えた神が与えてくださる夢や将来を、祈り求めていきたい。

自分の想像や可能性では、到底計算できない思いを私たちに起こさせ、それを現実に実行させてくださる神。私たちは、その力ある方を毎週礼拝し、賛美し、祈っていることに、もう一度マインドセットをし直しましょう。

今週は、もう一度このカラーの花を見つめて亡くなった方を思い、運命の冷たさを嘆いていた自分でしたが、今はこの花に神の素晴らしさを思い返してこれを書いています。

私自身、冬の間「困った、きっとダメだ、この先わからない、冷たい、難しい」と言っていたネガティブワードを捨てて、神の優しさ、摂理を思い、置かれた場所で咲かせて頂きたいと願わされました。

今朝、真紀子が、アメリカの霊的修練の本で、黙想の為に自分で俳句を作り、その俳句を自分の祈りにするという、新しいエクササイズがあると教えてくれました。

五七五の制限の中に、神を見上げる時、新しい自由と広がりが生まれる。確かにこれは、自分が置かれた日常に、神の温かい恵みを思い起こすエクササイズになりそうです。

いつか祈りの俳句を持ち寄り、分かち合うのもいいかもしれません。

それでは、僭越ながら最後に1句

   「ここに咲く 一隅の花 摂理なり」      中尾善之介

サンボーン公園のトレイル

今週も、やる気のないレク係の代わりに、介さんが場所を選んで出かけました。

以前にも、「プチ静まりのリトリート」として、皆さんと一緒に出かけたことのある公園ですが、介さんは初めてだったそうです。駐車場6ドルがなければ、もっと頻繁に行きたい所ですが、パーク外にも路駐できるトレイルがあったので、また来てみよう。

いきなり9頭の鹿がお出迎えしてくれて、大群だけに微妙に怖かった。

介さんは一人でカップラーメンを食べ、珈琲を淹れてくれたまでは記憶があるのですが、背中にあたったおひさまが暖かくて、私はそのままテーブルでお昼寝をしていたようです。

鳥の声で起きて、ショートトレイルを歩き、それぞれ黙ってprayer walkをしてみることにしました。

それなのに、「写真撮って🤳」とばかりに切り株でポーズをとるなど、まるで小学生の遠足。

もう一つの公園も、ついでに視察。

小川が流れ、遊具もあって、「教会の子供たちとここで遊びたいね。」と言う介さんは、どこか寂しげでございました。

この日は、これにとどまらず、あと二箇所立ち寄ることになり、こんな近場にこれだけ楽しめる場所があるのだから、春を楽しもうとめいいっぱい遠足を楽しんできました。

つづく

疲れたら、休まないと

整くんが、こんなことを言っていました。

「世界で起きていることは一つでも、どこを切り取って、どこから見るかで大きく変わります。

そして、それぞれの見たものは、きっと一致しません。

厄介です。いつも難しいです。

だから気をつけなきゃいけないと、常々思っています。

自分以外の人も、生きて、感じて、考えているということを、忘れないようにしたいです。

僕まだ、しゃべってもいいですか。

疲れたら、なんとか休んでください。

できたら疲れる前に、休んでください。

久能整

なんとか休まないと、、、、と思うのですが、多分それは、どこかに出かけて気分転換とか、美味しいものを食べるとかではなく、心を休めなければいけないのだと思います。

それはもう、ずっと前からわかっているのだけど、そうもいかない時があります。

そんな自分の心を無視してると、身体がちゃんと教えてくれて、そんな時、心と身体は、つながっているのだなぁと思います。

「もう、子どもじゃないんだから、ダンゴムシになっちゃダメだ。」

整君のように、自分に言い聞かせるのだけど、眠れないのも地味にキツイなぁ。

ダンゴムシになるわけにはいかないから、思いきってモネのキャンバスプリントか、The Holy Trinityを飾って眺めていたい。

いや、、、ちゃんと外に出て、荒れ果てたお庭の掃除をし、お花を植えたほうがいいのかな。

そんな風に色々考えるけれど、そう簡単に心を休めることができない私たちだから、招いてくださる方のところに退いて、魂を回復させていただきたいですね。

6年前の『あじさい』を読んで

あじさい        2022年3月16日

パンデミックが始まった時、エレミヤ書のみ言葉のように、こんな時だから木を植えて、実がなることを夢みたいと思っていました。

けれども、「ここは土が悪いから、石がゴロゴロしてとても植えられない」と諦め、実際に木を植えることはありませんでした。

礼拝のメッセージでもお話しされましたが、以前、S家を訪問させて頂いた時、チェリーの木を植えるために大きな穴を掘り、嬉しそうにされているSさんの笑顔が忘れられませんでした。

これまでは、先のことに不安を抱えて過ごす2年間でしたが、来年の春、またその先に花を咲かせ、いつか実がなることを想像して過ごしたら、どんな2年間だっただろうかと思いました。

日曜日、礼拝堂の横に6年前に印刷した『あじさい』が、残されていました。

そこには、2016年3月の教会行事がぎっしりと載せられ、地区会の予定、40 Union Cafeやコンサート、バイブルティータイム、イースターのハレルヤコーラスの様子が書かれてありました。

それまでは、春が近づくにつれ、パンデミックで失ったものへの虚しさや、寂しさを覚えていましたが、これを読んだ時、あの頃の皆さんの笑顔が目の前に浮かび、懐かしい教会の姿を思い出させてくれました。

その昔、戦争が終わり廃墟に戻った人たちは、どんな風に悲しみや虚しさを乗り越え、どんな思いで再建していったのか?

東北の震災や戦争を思えば、私たちの失ったものや目の前の問題は、比べようもないほど小さなものかもしれませんが、

どんなに小さな棘や傷であっても、私たちの感じる痛みや喪失感は、私たちの心を萎えさせ、力を失わせます。

けれども、私たちが感じるその痛みは、同時にこれまでどんなに祈られ、どんなに支えられてきた「今」があったかを思い起こさせてくれます。

そんなことを考えていたら、突然長女から、プリム祭のクッキーを作っている写真が送られてきました。

プリム祭は、旧約聖書のエステル記を起源に持つお祭りです。紀元前586年、バビロニアに滅ぼされたユダヤ人は、バビロニアへ強制移住させられ、バビロン捕囚となりました。当時のペルシャの大王の王妃となったユダヤ人のエステルが、叔父のモルデガイと共に、高官ハマンのユダヤ人虐殺計画を暴露して、ユダヤ人たちを救ったことを記念するお祝いです。

そしてプリム祭には、けしの実のジャムを三角形に包んで焼いた「ハマンの耳」というクッキーを食べることを、今回初めて知りました。

ユダヤ人は、自分たちが受けた苦難と、いのちが守られた喜びを、忘れないように覚えてお祝いする。

名前の由来を聞いてしまうと、クッキーはあまり食べたいとは思いませんが、過去を振り返って「今」を喜び祝うユダヤ人の習慣は、素敵だなと思いました。

先日、ついに庭に桃の木を植えました。この木は、私たち家族に勇気と希望を与えてくれた、いのちの誕生を記念したものです。

この木を眺めていたら、私たちも希望を持って未来に目を向けることを教えられました。

2年間手付かずで荒れ果てたお庭も、ミニストリーも、自分の心も、諦めずに何度でも耕せばいい。また耕し、種を蒔き、木を植え、育てていくプロセスを、主と共に楽しんでいきたいと思いました。

改めて、こうしてこれまでを振り返る事と、日光浴ってとても大事ですね。

春は、ぽかぽかの太陽のような、温かい神さまの愛をいっぱいに浴びて、たくさんの栄養と心を潤す水をしっかり頂く季節です。

過ぎたこれまでのシーズンを振り返って感謝し、また希望を持って耕し、喜び祝って、次のシーズンを過ごしていきたいと思いました。

中尾真紀子

昨日の晩、すっかりエステル妃の動画をつけ忘れて送信してしまった。🥲

そして、こちらはバイブルプロジェクト

ミモザと青空

義母から「『あじさい』を読みました。ありがとう。」と感想が送られてきました。

介さんが、ミモザの日の「世界女性デー」のことを『あじさい』に書いたので、義母は私が書いたと思われたそうです。

確かに、私のお仕事は校閲ガール。

reference を調べて確認したり、介さんの普段の会話が倒置法なので、意味不明な文章を校閲することや、ダメ出しはします。でも、二人ともめちゃくちゃなので、互いの校閲はあまり意味をなさないけど🥲、必死に介さんが書かれております。

私は元々、ブログを書く時、書きたいことが最初にあって、ブログを書くタイプではありません。

写真をまずあげて、「えっと、、、、何書こうかな。」という日記感覚です。

『あじさい』の内容は、夫婦が見聞きしたことを分かち合う、日常の会話がベースにあって、そこから書くことが多いです。

介さんは特に「今日は何の日」という話題から、書き始めるのが多いかなぁ〜と思います。

なのでお母さん、

私より「今日はミモザの日だな〜」「クレープの日だなぁ〜」とか言っちゃってる息子は、結構女子力高めです。多分、職業柄、私よりも多くの時間を女性たちと関わっているからなのでしょうね。

『あじさい』は、メール配信購読になったので、教会メンバーの写真や個人情報に関する投稿以外は、購読希望される方に送るようになりました。

そんなこともあり、最近は日本からのリクエストやコメントが増え、感謝しつつも、「変なこと書けないなぁ〜、やっぱり今回パス!」と言うことが増えました。😂

先週の『あじさい』はこんな感じです。

戦争だけでなく、周りに起きている悲しい出来事や辛いニュースに、私はどっぷり共感疲労の最中だったので、とても慰められた『あじさい』でした。

あじさい      2022年3月8日

3月8日は、世界女性デーでした。イタリアの「ミモザの日」と重なり、女性に感謝を込めて、母親、妻、同僚、友人などに、幸福の象徴のミモザを送る日だそうです。鮮やかな黄色は、寒い冬に暖かい春の希望を伝え、青空に伸びたミモザの色から、ウクライナの国旗🇺🇦を思いました。

「共感疲労」という言葉が、ウクライナの戦争の報道を見聞きする中で、話題になっています。「共感疲労」とは、苦しんでいる人を見て、共感のあまり自分まで苦しくなってしまうことです。この共感疲労は、戦争や震災の報道だけでなく、友の近況や、家族の抱える問題を、自分が受け止めすぎて起こることもあリます。中には、不眠、食欲不振、血液上昇など、抗うつ状態などの情緒不安定になる人もあるそうです。一般的に、ストレスを感じると、腰痛、腹痛、歯の痛みが起こり、免疫力が下がり、病気になりやすくなると言われていますが、私たち夫婦も、この2年間はそのようなストレスを溜め込んでしまいました。今この時、病に苦しんでいる方、お仕事を失った方、問題を抱えている人がいるのに、美味しい物を頂いていいのか?TVを見て笑ったり、何もしないでいいのか?と、特に月曜日はかなり疲れていました。

臨床心理学の確井真史教授が、共感疲労を超えて、私たちにできることは何か?について、戦争に対して関心を持ち続け、考え、抗議の声をあげることは大切だが、情報を入れすぎること、何もしない自分を責めることはやめ、少し離れることも大切だと書かれていました。

「共感疲労で心も身体も疲れてしまっては、あなたの本来の役割を果たすこともできなくなります。今、食べられる人は食べましょう。今、学べる人は学ぶことがあなたの社会的責任です。何もしないで世界が平和になることはないでしょう。私たちは、平和を作り出さなければなりません。 そのために、自分の心と体と家族を守り、社会的な力をつけましょう。」と言われていました。

 家から出て、自然の中を歩き、木々や草花を見てみると、隠れたところでは命が再び動き出し、春の準備をしていました。

冬の終わりに芽吹いてくる蕾に、力強さを感じます。蕾には、これから花が咲くという希望がその膨らみから溢れています。ほんの数週間前までは、何もなかった土や、枯れ木のようにしか見えなかった木から、小さな新芽や蕾を見つけた時や、暗い森の中の置かれた境遇を越えて咲く草花に、春の希望に目をとめることを教えられました。

 先日、家族のことや教会のこと、そして戦争のことであまりにも心がいっぱいになったので、海に出かけてみました。

海を眺めていて、自分の心には、絶えず様々な騒音があることに気づきました。そして、絶えずどれが正しいか、どちらの方が得か、誰かと比べ、時には自分と戦い続けているような気がしました。

次から次へと入ってくる情報は、私たちの心を不安にさせ、時には掻き立てます。誰かがしていること、知らない間に動いていることに振り回されるのではなく、「あなたにできること」をすることが、平和を作ることの第一歩です。周りからの共感疲労で、心も体も疲れてしまっては、私たちの与えられているものに感謝し、それを生かして、本来の役割を果たすことができなくなってしまいます。

余分な罪責感を持つことをやめ、その人達のため、その問題のために祈りましょう。 美味しいものが食べられる人は、それを食べ、仕事ができる人は、精一杯仕事をし、家事や子育てや奉仕も、心を込めてそれを楽しみましょう。

まずは自分の心に、平和を作ることから始め、自分の心と体と家族を守る。その平和は家族を越えて、教会、友達、社会へと広がると信じます。

平和をつくるものは幸いです。

その人は神の子どもと呼ばれるからです。マタイ5:9

中尾善之介