只今、工事中です

2022年6月8日

  5月になって、ある日突然耳が聞こえづらくなりました。ずっと体調が悪かったので、気をつけてはいたのですが、「いきなり耳が聞こえないってどういうこと?」と自分でも驚きました。最近の私は、本来やるべきことも少し手放して、十分スローダウンしていたし、負担がかかりそうなことは、休み休みしていたので、どうしてなのかわかりませんでした。そんな時、牧師がいつも聞いているアメリカのポッドキャストで紹介されていた内容を、わざわざプリントして読ませてくれました。そこには、このように書かれていました。

霊的生活は贈り物です。それは聖霊の賜物であり、聖霊は私たちを神の愛の王国に引き上げてくださいます。しかし、その贈り物が提供されるまで受動的に待つということではありません。(マルコ10:23)イエスは、私たちの心を御国に向けよと言われます。心を向けるということは、真剣な願望であると同時に、強い意志が必要です。霊的な生活には、人間の努力が必要です。私たちを心配事だらけの生活に引き戻そうとする力は、簡単に克服できるものではありません。私たちは普段、外界の雑音に囲まれていて、神が私たちに語りかけているのを本当に聞くことができない。私たちはしばしば耳が聞こえなくなり、神がいつ私たちを呼び、どの方向に導いているのかも理解できないため、私たちの生活は放蕩/不条理で、傍若無人のなものになっています。

               『デボーション・クラッシック』ヘンリ・ナウエン

放蕩とか不条理という言葉には、ラテン語で「耳が聞こえない」という意味の言葉が含まれているそうです。それを知った時、ちょうど私の耳が聞こえないということと被りました。あまりにも自分の心配事に場所を容認しすぎた毎日は、神さまの思いや、願われていることに対して、私の心や耳を塞ぎ、神さまからの贈り物である「神の愛に満ちた霊的生活」に生かされることから程遠く、悩みと失望に満ちていたのだと気づかされました。

騒がしい心配事に満ちた生活から、神さまの声に耳を傾け、心に自由な余白を持った生活へと移っていくためには『エクササイズー生活の中で神を知る』ことが必要です。本を読まれた方は、これが難しそうで意外となんとかチャレンジできそうと感じたのではないでしょうか。例えばこの本の一番最初には、「よく眠る」というエクササイズが紹介されています。私は、どちらかというと一人で時間を過ごすことが好きなタイプなので、ジャーナリングやソリチュードを持つことは苦ではありません。でもその分、辛い修行もトレーニングも嫌いなので、霊的修練のエクササイズも、苦手なものは、いつの間にか途切れてしまっていました。今回、耳が聞こえなくなったおかげで、睡眠時間を増やそう。一人で庭や自然の中にいる時間を増やそう。もう一度ジャーナリングを始めようと思いました。

以前、バイブルティータイムのために『I will be with you Journal』というノートを作りました。これは、高校生の時に救われ、その後、親や他人の都合で自分の願った人生を歩めない苦しさで、神さまから逃げていた時、押し入れにあった昔のジャーナルの創世記28章15節を見つけたことに遡ります。何年か前の『あじさい』で、ゲイリー・トーマス「聖なる道」の9つのタイプを紹介し、神さまとの関係を深める方法も、神さまが私たちをキリストの似姿にしてくださる方法も、人それぞれ違うことを書きました。今思えば、このジャーナルは、観想的な私にぴったりのレクチオ・ディビナと神さまへの祈りを書き留めるものだったのに、自分のためのジャーナルではなくなっていました。もしかしたら、もっと結果が出せて認められること、誰の目にも自分の信仰深さが表されることに、心が向いてしまったのかもしれません。その事を考えれば考える程、本末転倒し、魂を休ませることも、神さまと過ごす時間も、すっかり持てなくなってしまったのです。

そんな時に、耳が聞こえなくなった。この事に驚きつつも、不思議と自分に対する「神さまの本気」を感じました。当然神さまは、いつも誰に対しても本気だとは思いますが、神さまは私たちを本気で工事されようとしているのだと思いました。

ちょうどその頃、毎年恒例のハーブソルトを、ただ黙々と祈りながら作り、誰かをもてなすことをあれこれと考えているうちに、それを喜んでいる自分に気づきました。お礼を言われることでも、認められることでもなく、イエスさまと一緒にそのことを楽しんでいるように思いました。それから数日後、予定されていたグループ・スピリチャルディレクションで、沈黙の時間がありました。目を閉じると、心の中に「わたしはここにいるよ」という言葉があたたかく響いてきました。セッションが始まり、導かれるままにお話した後、5分間の沈黙の時間がありました。すると、また先程の言葉が何度も何度も繰り返し響いてきました。幸いなことに、それ以前から耳は聞こえるようなっていました。でもこのことを通して、耳ではなく、神さまの愛の御国の扉が、もう一度私の前に開かれたようで、その日からなんとも言えない喜びと平安が与えられました。

イエスさまの生涯は、どんな時にも、誰の言葉や態度にも縛られない自由な生き方でした。それは、いつも御父に耳を傾け、その声と導きに従っておられたからです。きっとこれこそが、私たちに与えられた特権と喜び。耳を傾け、いつもその心を神さまに向け、この地上にありながら神の愛の御国に住み、主と共に毎日を生きることだと思わされました。

霊的形成は、人生の旅路と共に生涯続く修練のプロセスです。しかも、さながらサグラダ・ファミリアのように、なかなか工事は進まず、私たちは常に工事中のままかもしれません。それでも建築士は神さまですから、完成していない姿のまま、世界遺産級の神の作品として価値あるものとされました。そんな風に思ったら、いつもどこかが工事中のままだけれど、その壊れやすいもろさも、未完成な醜さも委ねて、完成までのプロセスを、イエスさまと共に楽しみ喜んで歩みたいと思わされました。

以下は、ダラス・ウィラードの “Renovation of the Heart “の中の言葉です。     
「キリストにおける霊的な形成は、秩序だったプロセスである。神は無秩序の中で勝利することができますが、それは神の選択ではありません。そして、神ができることにフォーカスするのではなく、神が私たちと共に働くために選んだ方法を受け入れるために謙虚にならなければなりません。これらは聖書の中に、特にイエスの言葉と人格の中に明らかにされています。イエスは私たちが重荷になるような負担の多い方法、特に「宗教的」な方法から離れ、イエスと共に訓練するくびきの中に入るよう招いておられます。これは優しさと低さの道であり、魂の休養への道です。それは、彼の荷を引き、彼の荷を一緒に運ぶことが、楽で軽い人生であることを証明する内なる変革の道です。(マタイ11:28-30)”

中尾真紀子

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