お詫びして許されるって

「おわびをして許されるって、ほんとにいい気持ちのものね」

『赤毛のアン』の言葉を、久しぶりに思い出させてくれた大嶋裕香さんの『絵本へのとびら』。

実は、昨年のクリスマスに、わざわざプレゼントして下さったのですが、その感激をどこかに残すことが、まだできていませんでした。

この夏、そのお礼が言いたくて押しかけたのだけど、時間もなくて、結局その事はご本人にお伝えすることができませんでした。
それなのに、逆に大嶋家で過分な接待を頂き(これは介さんが礼拝で先に言ってしまいましたが)
沢山の素敵なお土産まで頂いてしまいました。

その中でも、このMariage frères の紅茶は、タイムリーにも、中尾家に毎週バイブルスタディや面談で来られる方々にお出しして、その薫りを楽しんで頂いています。

私の大好きなキャトル・セゾンで、思い出して下さったHedgehog。

これは、私たちの心を表すオブジェクトとして、自分の心の状態を思い巡らしたり、お話しをする時にも使わせていただいています。

先日、この本を読み返していて、冒頭のアンの言葉に対する裕香さんの書かれた文章。とても心に響きました。

滅多に「I’m sorry 」を口にしないアメリカで子育てしながらも、日本のコミュニティにいる私たちは、
子どもたちの気持ちを慮る前に、

「ほら、なんて言うの?」と促して、「ごめんなさい」と言うように教えてきました。

それなのに、私たち大人は、子どもたちのように簡単に、すぐには相手のことを許せていない。

むしろ「絶対に許しちゃダメよ」と自分の正しさを守るように、私自身に言い聞かせている気がしました。
日頃自分たちも、アメリカ生活で心から謝られるよりも、蔑ろにされたような思いになることや差別を感じることが多いからだろうか?

裕香さんは
「ごめんなさい」「いいよ」までがセットなのだと気づいた。と書かれていました。

正直、そこまでのプロセスには、とても時間がかかる。

ましてや、自分ではない誰かの問題に寄り添うとするなら、自分や相手の感情の浮き沈みにも向き合う忍耐と知恵と、信仰が必要だと感じることがあります。

でも、寄り添う不完全な私たちの為にも、背後でまた祈ってくれる信仰の友や先輩たちがいること。
そして、同時に問題に対する聖霊の導きと守りが、確実にあることの憐れみを感じています。

私たちが共に負い、向き合うその先には

「おわびをして許されるって、ほんとにいい気持ちのものね」
があること。

私たちがまず、赦されている者であること。

誰かに寄り添おうとする時には、その赦された喜びと感謝を自分たちが忘れていないか?

とリマインドすることをが大切だと、教えられた気がしました。

絵本も、子どもの頃に読んだ本も、大人になった今だからこそ、大事なことに気づかせてくれます。

秋の夜長に『絵本のとびら』を開けてみると、いつの間にか、Hedgehog のように警戒し、緊張していた自分の心がほぐされ、癒される思いがしました。

これは、以前にインスタにあげた「ひとりごと」なのだけど、今週の礼拝のメッセージ「フォローワーになる」で、更に深められた気がしました。

礼拝メッセージが終わり、気がついたら、並んで座っていた母娘ともども涙を浮かべていて、

それぞれ、人知れず心折れることが色々あるけど、こうして日曜日には、互いに神さまの前に出て、その重荷をおろしているんだなぁと、礼拝者としてのお互いの存在と喜びを実感しました。