Calico なガール

当たり前かもしれないけれど、素敵なクリスチャンブロガーは、この世に沢山いて、そのライフスタイルは、世の中に媚びず、日々御言葉を味わい、若い子もおばちゃんブロガーも、とても輝いている。

あまりネットサーフィンしない私から、紹介されるほどもないかもしれないけれど、色々なタイプの輝き方やQOLがあることを教えられるので、ちょっと珍しいタイプをご紹介。

www.calicoandtwine.com/

「大草原の小さな家」や「若草物語」「赤毛のアン」ターシャ・テューダーは、永遠の憧れ!という方には、この若さでこのQuality of life をエンジョイする姿に魅了されるのではないでしょうか?

実は、だいぶ前に長女から教えてもらったのですが、このタイプの服や田舎の古い家のライフスタイルが、一部で流行っているらしい。

またいつか、ここに書こうと思うのですが、独身時代の私の服や雑貨を、ことごとく愛用してくれる娘たちの姿を、嬉しく思いながらも、私もいつしかヴィンテージになってしまったことを痛感する。😅

以前から、タイプライターや万年筆が好きな長女、ベイキングやヴィンテージ。きっとこの路線なのだろうなぁ〜。

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Girl in Calico

他にも、ナチュラルカッコいい系の素敵なおばちゃんたちのブログ(最近はInstagramですけど)は、周りに振り回されず、Quality of Lifeをエンジョイする事を教えられます。

GSDの恵み

待ちに待った熟女GSD。
早朝から、何と豊かな時間だったのでしょう。☺️😭🌿

3つの時差がある中、zoomという難しい状況の中で、ここまでスムーズできたのは、やはり訓練された霊的同伴のリーダーが、細やかな配慮をして下さったからだろうと、事前の予習の時点で心躍った。

同時に、プレゼンターとなるメンバーが、それぞれ神さまとの時間をしっかりと大切にされ、これまで共に歩んでこられた道のりも、互いにほんの少しでも分かち合えていたことも大きかったと思います。

自分にとって、完全な場所を見つけることが難しく、見つかったかと思うと、居心地の悪さを感じたり、劣等感や違和感を感じてしまうのが、スモールグループの問題でもあると思っていたので、グループスピリチャルディレクションは、まさにメンバーではなく、聖霊が導かれる沈黙の中で、互いに主のご臨在とみ声に耳を傾け、自分自身の反応にも心を開きながら、豊かにされていく時間であることを、体験させていただきました。

その後、ひとりで振り返りの時間を持っていると、さらに恵みが溢れてくる。しかも、その時には気づかなかった事や、喜びや感謝を発見する。何という幸いな時なのかと。

それでも、終わった途端に飛び込んでくる、テキストやメールに心が揺さぶられる現実。さっき恵まれたと思った矢先に、些細なことに気落ちする心。
そんな事までご存知で、神さまは、振り返りの恵みのシェアやお写真。そして、午後には待ちに待った本が届くなど、いつもタイムリーに慰めを与えてくれる神さまの優しさを感じました。

きっと、この月末。
熟女たちは、それぞれの場所でこの本を読み、著者が、これまで私たちに指し示して下さった神さまを、思い巡らすことでしょう。

そして、私たちにはまだ見えていないこれからに対しての希望。
「まだ暗いうちに」働いて下さる、神さまの力強い御手と眼差しを感じては、そのプロセスを共に歩んで頂きたいと願うのでしょう。

この本は、本当にお薦めです。💛

教会用にも、著者からオーダーさせて頂いた本が届いています。おうちのポストまでお届けしますので、遠慮なくDM下さいね。🌿

チキンスープ

チキンスープは、鎮静効果があると聞いていたけど、嘘のように首の痛みが治りました。
大好きな生姜とネギとニンニクも入れて、出来るだけ毎日飲むことにいたします。

随分前のSDで導かれた「シンデレラとユニフォーム」の事を、ジャーナルにしか書いていない事に気づき、これは後で振り返るためにも、残しておきたいなぁと思うのだけど、未だに上手くまとめられる気がしない。
そのままを少しづつ書き留めてみて、2年後ぐらいに、自分でも理解できるようになるのかもしれない。
なので、全然関係ない本を読む。🌿

アンちゃんの女子タイム 

「ちょっと、来て!」と介さんから言われて行ってみると、アンちゃんが一人でお茶していた。

昨晩シワを伸ばしたテーブルクロス。🥲
先をこされたことよりも、つくづくアンちゃんの 毎日の暮らしを、自分のためにエンジョイする姿に学びます。


ストームで家に入れたカランコエも、そろそろ鉢を変えないと。
成長していく子供たちが、のびのび個性を活かせるように、親の器も変えられていきたいものです。

いのちだね〜

強風で折れたクリスマスローズ。今週の礼拝のメッセージの中で、お話しされたのがこれです。その時は、もうあきらめかけていた硬い蕾が、月曜日になって開きました。今までは、買ってきた時に蕾だったものを、小瓶に挿してみるけど、中々開かないままだったので、驚いて介さんにも報告しました。

「いのちだね〜」

朝から、講演を聞いておられた介さんは、しみじみとそう言われましたが、イマイチ私の感動を共有できたと思えない。まぁ、夫婦といえども、そんな感じですよね。

私は、それからとんでもなく散らかった家を掃除。

介さんは、その日の夜まで、zoomびっしりで、牧師の休日を満喫されたようでした。(あいだに、鬼滅の刃もしっかり観てた)

メッセージの振り返りを分かち合う場が、この数ヶ月なかったので、ここに忘備録として、時々残すかしばらく考えてみます。

ゆっくり書く時間が今日はないけれど、「人と比較することからの自由」について、思い巡らすことができました。

あっ、停電!

ベイエリアは、ストーム警報が出ています。なんだか、日本での台風みたいで、懐かしい。

ネットが繋がらなくなると、静かにクールに各自部屋から出てくる。このオンライン授業生活でのあるあるですが、さすがに夜の停電は、何か叫んでおります。

悠長なこと書いてないで、ろうそく🕯ろうそく!

耳フレンチトースト

聖餐式が止められてから10ヶ月。
日本の教会は、聖餐式で出された葡萄ジュースとパンの残りは、どうするか?

長女が授業(日本近代史?)で質問され、
「牧師室に届けて下さって、牧師が全て聖餐式の感謝を覚えながら頂く。」
というPK思い出話をシェアして驚かれたという。

「日本の教会」で括られると、大変な事になるので、教授にはちゃんとお伝えしたらしいのだけど。
PK思い出話とは、パン一斤の残りも頂くので、聖餐式の次の月曜日の朝は、「母が決まってフレンチトーストにする」というものです。😂

「切っていない何枚かと、大量な耳を頂くので、耳フレンチトースト」という所に、感動を覚えられたのか?
それとも憐れまれたのか?

日本では、パンの耳を揚げてお砂糖ふったものは、最高のおやつなんですけど。

、、、、単純に我が家の子育て期が、極貧だったからでしょうか?


その事を知らない「幸せな三女」は、ただ時々出てくる朝食と認識されているというお話。

介さん、朝から教団牧師会で教会なので、私は今朝分かち合ったことの振り返りを、書き留めたり整理したり。
そうしてると、本当に読書する時間が足りないなぁと。

たたんでいない洗濯物の山を横目に、溜息混じりに思うのでした。

五品を通して静まる

中国茶のお茶会に連れて行って頂いたのは、6年前の今頃でした。

その時の感動は、言葉に言い尽くせない。いつか、その時のことを言葉にして残したいと思いながら、中々出来ないままでいる。

その日、3ヶ月以上家族以外の人と会わず、家から一歩も出れなかった私。それもコロナ禍の今となっては、さほど大したことではなくなったのも、神さまのおはからいだと思えてくる。

お宅にお邪魔すると、初めて拝見する中国茶会の設えに、緊張していた心が明るく和んだのを覚えている。

温かく迎えて下さった先生は、背筋をピンと伸ばして、静かに湯煙をたてながら、お茶を淹れてくださった。そのお作法の美しさに魅了された私は、初めて頂いた中国茶の美味しさに、本当に生きる力をいただいた。

その時のお茶のことは、またいつか書くことにして、あの時、凍りついていた心が、溶けるように癒された理由が何であったか、

その後のC−WIT18を通して教えて頂いた「五感を研ぎ澄まして意識する」ということを、お茶会を振り返りながらプロセスしていくができた気がしました。

私がこうして、又ブログを書きはじめたことは、もう一度、そのことを棚卸しする必要があると思ったからです。実は、だいぶ長い間棚上げにして、過去の出来事として整理していたので、こうして時が経ち、少しづつ書いていくうちに、あの時も、この時も、そこに居てくださった神さまを覚えることになるのだと思う。

今日の振り返りはこの辺にして、中国茶の五品について、聞き齧ったことを書いてみます。

五品とは、全身全霊で味わうということ。

体の器官を研ぎ澄まさせて、一心に味わうのだそうです。

  • 耳品 お茶をもてなす主人のお話をよく聴くこと
  • 目品 茶水の色や、茶葉の色、形をよく観察すること
  • 鼻品 お茶の香りを、鼻で味わい愉しむこと
  • 口品 お茶を飲んで、舌で味わい鑑賞すること
  • 心品 お茶を物質的な視点から、文化的に味わう

これは「静まりのリトリート」で教えていただいた、五感(聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚) に注意を払う事に似ている。

実際に沈黙の食事をした後に、中国茶を頂いた時の感動と、そのゆっくりと流れる静粛の時間を思い出した。

様々な角度で味わった、あの時間とあの空間の全てに、神さまが居てくださったことを思い起こさせられ、生きる力を湧いてきた理由が、わかった気がします。

そして、その静まりの空間へと誘ってくださり、一緒にその時間を共有して下さった恩人や、何も求めず、突かず、ただ祈って待っていてくださった方々。

そのような祈りの支えをもって、神さまからのご愛と慰めと癒しを、私はいただいたのだと思うのでした。

今日のところは、この辺で。

頂いた高山烏龍茶
お茶を淹れた後に、愛でる茶殻
中国茶だけでなく、目にも舌にも癒されたのでした

久しぶりのバスチー

今日の妄想カフェは、久しぶりのバスチー

レモンがたくさん🍋なりましたが、今年はまだ小さい。水が足りないかなと、呟いていたら昨晩から雨が☔️降ってきました。


私は、バスチーにヨーグルト入れない派なので、そぼろかっ?という切り口になりますが、簡単なので週末の追い込まれ中でもできる、元気注入デザート🍰
次はプリンかな〜。
いや、明日は久しぶりの早朝zoom。
今日終わらせるべきことを終わらせて、早く寝よう。ってまだ3:30ですけど。

夕食は、朝イチでC -WITスープ(レシピby祐子さん)作りました。これ三女が食す数少ないメニュー入りしています。😊

おままごと

この自粛生活、私たちの住む地域では、学校がオンラインなだけでなく、不要不急の外出は、極力避ける生活が10カ月続いています。

活動が止められ、動けない分、動いている人、着実に何かを形にしている人を見ると、余計に焦ったり、惨めになったり、不公平を感じたり、自分ではどうにもできない状況に、気力を無くしてしまう人も少なくないと、あちこちで耳にします。

私は、普段から大勢の中にいるよりも、一人の時間が好きなので、最初は案外快適に過ごしていました。でも、さすがに10ヶ月も経つと、張り合いのない毎日に疲れを覚えます。

「リラックスする」と言っても、これといった特別感や行事のない毎日では、「リラックスする」とか「楽しみを探す」ことは難しい。

そこで、久しぶりに中国茶を毎日淹れる事にしてみました。

珈琲や紅茶、日本茶でも良いのだと思う。

日常生活の延長線にある事を、いつもより少し丁寧にやってみる。昔流行っていた「丁寧な暮らし」を実践してみることにしました。

今年の私の聖句から、こんな時に「喜び楽しむ」とは、一体何ができるというのだろう?と思ったのだけど、子どもたちが小さな頃、自分でセットしたおままごとに、無理やり駆り出された事を思い出した。

彼女たちが、ぬいぐるみをゲストにしたおままごとの空いている席に、私も巻き込む事で、相手の反応や自分の感じる思いを生きた言葉として交わす。それを、とても楽しんでいたように思う。

ひとりの時間を楽しむだけでなく、実際にいつものお茶の時間を、「特別な時間」として楽しむ。

もしそれが一人であっても、そこに神さまのPresenceを覚えて丁寧にお茶を淹れる。

ちょっと怪しげだろうか?

それを子供たちは、自然に楽しんでいた。おままごとをする姿、invisible friend と遊んでいた姿、男の子なら一人でミニカーやブロックで遊び時間。

あの時間は、とても大切な時間だったのだなぁとしみじみ思う。

その特別な時間を、大人になってから持とうとすると、「怪しげな人」に見えてしまうのかもしれないけど、お散歩の時間、お茶を淹れる時間、庭いじりをする時間、子供と遊ぶ時間、そうそうお風呂の時間も。

それぞれの方法で、その時間を大切に、丁寧に?(意識をフォーカスして)神さまの臨在を覚える時間にしていきたいと思いました。

中国茶や珈琲を淹れる時の儀式は、森林浴のようにリラックス効果を与えてくれる。

その事や中国茶については、また後で書く事にします。

彼のために祈る

今日は、今年最初のSpiritual Directionでした。

このことについては、カテゴリーも用意したのに、中々どう書いていいか分からずにいました。

内容は、当然パーソナルなこととなり、毎回、日記として残しておくべき大切なスピリチャルジャーニーではあるけれど、私が導かれることを記したところで、読み手の受け取り方は千差万別なので、あまりプラスになるとは思えない・・・などと。

それが、あることをきっかけに、ここにアウトプットしていこうという気持ちにさせられました。これから少し時間を見つけては、これまでのSDで導かれたことなどを、書いていきたいと思います。

S Dについては、ここで私が説明するよりも、さっと読めるお奨めの本や雑誌のバックナンバーも、後日紹介したいと思いますが、一番はなんと言っても、中村佐知さんのブログです。私がこのブログに書くことは、ほとんど佐知さんから教えて頂いたこと(勝手な解釈が入って間違っていたらすみません)その恵みを、少しでもここでおわかちできたらと思っています。

今年最初のS Dでは、思いがけず介さんの為に祈る時間に導かれました。

これまで、彼のために祈る時には、今週のメッセージのため、ミニストリーのため、または体調のために祈ることはあっても、彼の霊的な必要や魂のために祈ることが、随分なかったことを示されました。

毎回、「どのようにして始めますか?」と最初に聞かれ、Directorにお祈りして頂いたり、黙祷してから始めたりと様々なのですが、その後の第一声を私が話すまで、静かに待っていて下さいます。すぐに言葉ができる時もありますが、ほとんどの場合、「これをお話ししよう」と問題や相談事を持ってくる時間ではないので、少し私自身が振り返る時間を持ってはじまることになります。

それぞれのS Dの始まり方は、その時々違うと思いますし、S Dの説明をする為にこのブログを書いているのではないので、私の日記はあくまでも参考までに読んでいただければと思います。

私の第一声がなんだったか、すっかり忘れてしまいましたが、昨日はとても温かい日で、久しぶりに公園の水辺に出かけたこと。介さんは、そこですぐにお昼寝をされたのだけど、それがとても気持ちよさそうで、心がほぐれるような時間を過ごせたことをお話しした。

それから、今朝は珍しく、彼の傷んでいることを分かち合ってくれて、そのことの解決を願うのでもなく、ただ共に祈ったけれど、このセッションの時間になったので、ゆっくり聞く時間もなかった。

これから私がS Dの時間を持つと知って、「自分も教会に行ってくる」と颯爽と出かけていかれました。

「教会に行ってくる」

いつもは、それは出勤する(笑)ことを表すワードなのだけど、今朝のは何か違うように感じた。そのことを、Directorも同じように感じてくださったようだった。

「今、もしかしたら同じようにこの時間を神さまの前に出て、共有しているのかもね」と言われ、「真紀子もここで、一旦神さまの前に出てみようか」と彼のために祈ることを促してくださった。

短い時間だったけれど、私はその時間がとても幸せな時間に感じた。

私がこれまで彼のために祈るという時、説教準備のための祈りや、業務が滞りなく遂行できるための祈り、いつものルーティン的な祈りが多かったことも気づかされた。

目を閉じて祈る私の目蓋に浮かぶのは、神さまの前に祈る彼の姿。(実際、よく会堂の隅で一人祈ることが多い)

いつも、そのような「神さまと介さんだけの時間」を持って欲しいと思いながらも、顔を合わせれば「これ終わった?」「あれどうなった?」と本日のタスクに対して口うるさい私は、そんな自分の思いも、神さまの前に持っていくことにした。

その後のDirectorとの会話の中で、パンデミックになる直前にあったある出来事のこと、その時の感情を、実はずっと二人でホールドしたまま、この10ヶ月を過ごしてきたことをお話しました。

彼がずっと傷んでいた姿は、私自身の傷みでもあり、私はその事を自分自身の事として、オブラートに包みながらも、このS Dでお話しし、そのおかげで少しづつプロセスすることができた。

Directorは、自分でも「あれ?なんでこんな事話してるんだろう?」と思う時、いつも「この時間は、真紀子のための時間です。」と言ってくれる。

霊的同伴者(Spiritual Director)は、悩んでいることの答えや助言をくれるカウンセラーではない。導き手は神さま、聖霊御自身なので、私が神さまと向き合う時間、その霊的成長の旅路を、神さまが私のうちに働かれることを、共に見守ってくれる証人のような存在です。

いつもその時間は、Directorとの対話を通して、私の日々の生活の中に、神さまがどのように関わり、どのように導かれようとしておられるか、会話の中に出てきた出来事やそれに対するわたしの反応、言葉に注意を払って、ゆっくりと見ていく。

今日は、その私のための時間を、いつもと違った形で過ごすことができた。

神さまと一緒に、介さんのことを思い巡らす時間。それを通して、神さまが私をどう導かれようとしておられるかを感じていく。

実際その時間は、私の心を想像を遥かに超えて平安にし、彼のことを気遣い、支える余力、スペースのなかった自分の心が、軽くなり、同時にとても新鮮な力を頂いたように感じました。

「わたしのくびき」は、本当にイエスさまと共に負うことで、軽くされる。こうやって自分以外の家族や他者に対して、それを支える必要な力とリズムが整えられていくことを、今日も体験させられたのでした。

「次のステップ」を模索する介さんに対して思い巡らしている時、「次のステップを考えることも大切だけど、今、この時踏み締めているステップを、注意を払って、意識して大切にする」ことも示されました。

この10ヶ月間、その傷んだ心や出来事への私の反応を、何かのどのイガイガをとるように、突然の心の嵐を宥めるようなつもりでプロセスをしてきた気がする。

でも、もしかしたら、模索していた「次のステップ」とは、次のミニストリーの展開や、方策などではなくて、もっと人格的な、霊的な成長のステップとして、神ご自身がそこに招き、与えようとされる恵みに、フォーカスすることなのかもしれないと思いました。

余談ですが、私のSDさんは、本当に素敵な方で同伴者としてだけでなく、一人の女性としても、また真実に私と向き合って下さる姿にもとても励まされます。

追伸

このブログの使い方が、未だによく分からず、コメント欄がいつの間にか消えてしまいました。以前のコメントは読めるのですが、どうやったら書き込む場所が戻ってくるのか、ご存知の方がいましたら、是非教えて下さい。